知的障害養護学校での1997年6月の実践(失敗例)

 

これは私の授業の失敗例です。
1997年6月5日。

当時この特別支援学校小学部では「机の前に座ってする学習」というものはありませんでした。そもそも「学習をするための机」というものが教室の中には存在しませんでした。(物を置くた めと給食のためには少しありました)中学部では作業の時間に一部大きな机の前に座ってすることがありましたが特に「学習」ということではありませんでした。

私はそんなはずはないやろと思い、机の前に座ってする学習に取り組もうとしました。子どもたちが「好きなこと」「できること」を探してやったつもりはあります。
しかし、この頃は自閉症について勉強しはじめたばかりで、自閉症のお子さんの特性も知らず、TEACCHも知らず、「コミュニケーション・やりとり」の授業なのか「ひとりでできる」をねらった授業なのかわけのわ からないものになっています。最後にはA君が歩き出して止められなくなっています。これは私の失敗なわけです。

ツッコミを入れてみます。

さかんに私は「高い大きな声」で「ちょっとできたら」ほめています。

Bさんは私の方を見てニコっとしてくれています。しかし、これはたぶん私がそんな声をしょっちゅう出さなくても、モンテッソーリの柱そのものがピタっとはまれば「やったあ、できたあ」と思えて同じような顔をしてくれるんじゃないかなあ。まあ、そういう時に短いほめ言葉があったらそれが「ほめ言葉だ」と認識しやすくなるのは確かでしょうが。でもね、例えば誰かが仕事をやってる途中にいくら褒め言葉でもやいのやいの言われ続けたら五月蝿くない?私だったらええかげん黙っといて、と思うなあ。すべて完成した暁にはほめてもいいかもしれないけれど、もっと脱力した小さな声でいいと思うな。

で、お互いのコミュニケーションやりとりをねらっているなら、「やりとり・コミュニケーションするのが当然である」ようなゲームとかの授業をやればいいような気がするし。ってか全てはコミュニケーションなんだけどね。

A君は何かひとりで言っています。これは遅延性のエコラリア(どこかで覚えた音声言語が全然別の場・状況で出てくる)でもあるしジャーゴン(奇妙な言葉)とも言えます。専門家の中には遅延性のエコラリアは意味がわかって言ってるのではないから意味はない、とおっしゃる方もいますが、私はそんなことはないと思います。特にA君はどこかで聞いて覚えた言葉・絵本などで覚えた言葉などを遅延性のエコラリアで繰り返し言うのですが、それがだんだんとその場の状況にあったものになっていく、という音声言語の覚え方をしていきました。ただしなかなか機能的(実際にコミュニケーションの手段として役に立つ)な言葉とはなりにくかったです。私が直接の担任だった時1998年度は「ジュースください」と要求するとか「CD下さい」「プリントやりたい」とかを、VOCAや字カードを用意するとすぐに適切に(それを見ずに!つまりリマインダー、心覚えとして使ったわけです)どんどん機能的にしゃべるようになりました。しかし、私が担任を外れるとその機能的な音声言語は消えていきました。その後、私がいなくなってから不思議なことに再び機能的な音声言語を獲得してきたというふうに担任から聞いたのですが、昨日会った時、やっぱり「遅延性のエコラリア」(あまりうまく機能しない)の部分がほとんどでした。(私がメモで書いて尋ねた時以外)やっぱりA君はA君のままなんだ、(でそれが素晴らしいんだ、ってことですね)と確認できました。

追記

 私はここに

「私がいなくなってから不思議なことに再び機能的な音声言語を獲得してきたというふうに担任から聞いた」

と書いています。私は本当に不思議なことがあるもんだ、と思っていました。そしてこのエントリを書いた時点で、

「A君はA君のままなんだ」

と書いています。でもこのエントリを書いた時点でまだ気づいていませんでした。担任が私に「音声言語を獲得した」と報告してくれた例をよくよく思い出し、10年ぶりにあったA君の様子と重ね合わせると、その担任が言ったエピソードって、私がA君とまったく何の手立てもなくつきあっていた頃でもあったことだよなあ、と今気づきました。私は今までこの例を「不思議なこともあるもんだ」とずううっと人に紹介してきたのに・・・何かショックです。もちろん担任は
「こんなことできるようになったんだよお」と紹介したかったのでしょうが。

もちろんしゃかりきになって機能的な音声言語を獲得させよう、となんてする必要は全然ありません。でもなあ・・・
別に1998年の私たちチームだって、全然しゃかりきになってたわけじゃないんだけど・・・楽しく、見てわかることをやってるだけで、獲得していってくれてたんだけど・・・

そして、実はその遅延性エコラリアで、ものすごく大事なことを伝えてくれている、と私は感じました。それに周囲の人、気づいてくれないかなあ・・・

まあ、それはさておき、このビデオではA君が何か言ったのに対し、私が「同じ発音」を返しているシーンがあります。オウム返しですね。何かコミュニケーションしたいと思ってたし、とりあえず「私にはわからないからオウム返しをしておこう」というやつです。でも完全に空振りしています。

世の中にはこのオウム返しがいい場合もあるのです。相手の人が自閉症でなければ「あっ、この人私が言ったことをちゃんと聞いてくれているな」と感じたり、「あっ、この人は自分の考えを押し付けず、私のレベル(私の世界)に入ってきてくれてるな」とか感じて、よりいい関係ができたりね。

でも自閉症の特性を知っていれば、それって意味な~いじゃ~ん、になると思います。
今の私だったら、黙って「???」とその音声言語をただ聞いています。A君だったら、時によったら場に合ったことを言うから、その時はその時でまた何か反応しますが。

で、やっぱりいらん声かけが多いなあ。

またこの授業の時、子どもたちが好きな活動、できる活動は調べて用意していたのですが、画面左下のカゴに教材を用意しておき、本人の前に「私が」そのたびに出してきてさせています。次に何をするのか、どうしたら終わりになるのか、全然見通しのない状態です。またパズルなどは「カッチとはまる」から終わりがわかりやすいでしょうが、カードは何がどうなったら終わりなのかわかりにくかっただろうな、と思います。

最後はA君は「もうこれは終わった。次はカゴの中にある興味ある教材をやろう」と立ち歩き初めています。そして私は「ちょっと、まてまて」と言いながら腕を引っ張るという手立てしかなく、しかもそれは失敗します。

こんなことからの出発でした。